図書館にひろがる沈黙ほど清潔な自然さはない。「静かに」という魔法のような暗黙のスペルにかかって、みんなまるで赤ん坊のように、くちびるをわずかにゆるませて、眼前の紙に視線を落とす。一世紀前の冒険も、あまい恋愛のゆくえも、おいしいスープの作り方も、めくるページの端から、それぞれの心の中に溶けこんで、しずかに、しずかに、一番やわらかい襞の奥に沈みこむ。そこからすくいとった綺麗なうわ澄みが、あの独特の図書館のつめたい沈黙を生む。未知の言葉をうけいれようとする時、ひとは黙り、かつてないほど無防備になる。それは今、長い指で閲覧がゆるされた貴重な古書の背表紙を撫でた、うつくしい人とて例外ではない。黒い瞳がふんわりと高揚感にみち、ゆっくりと最初のページがひらかれた。あたしの好んでやまない刃のような視線が、今だけはやさしく白い紙に落ちる。ずっとできれば、そんな柔らかさでこちらをみつめていてほしいのに、あたしは彼の視線をちっとも盗めない。埃と墨で汚れた古い装丁の本に、花も恥じらう(はずの)15才のあたしは負けたのだ。机の下でわざと足をぷらぷらさせてみる、ああ、たいくつ。 「ねー柳、この色きれいじゃない?」 「.....ん?ああ」 「コーラルピンクのグロスて、ちょっとおとなぽいよねー」 「そうだな」 「うーん、でも校則違反だから学校にはつけていけないねー」 「そうだな」 「柳生にしょっぴかれて、真田の前で死ぬほど怒られるねー」 「そうだな」 「いっそ柳もつけちゃえばいいよー」 「そうだな」 「そんであたしと一緒に職員室前で正座しよー」 「そうだな」 「ねー柳、あたし今うざい?」 「すごくな」 ばっさり、と切られて、あたしは図書館の机に顔をつっぷす。視線を奪いたくての幼稚なパフォーマンス、という自覚はあるけれど、痛い。手の中にあったコスメ特集をうたうファッション雑誌も力なくほうりだした。あいもかわらず、柳はしらん顔で、ぱらりと次のページを繰っている。めずらしいことに頬杖までついて。そうか、そんなにその小難しい本がいいのか、未知の知識への探求、えられた情報を咀嚼、すべての終わりにのこる彼だけのオリジナルな解釈、頭のいい男の子が大好きなことだ。ふーん、といじけながらおもう。でもさ、それ、食べれないじゃん?心をみたしても、体はみたさないものにあたしは価値をおけない。触って、たしかめて、ちゃんと温かい感触がないと、どうにも落ち着かない。舐めてしょっぱいか、甘いかそれだけでいい。ばかみたいだけど、真田に怒られちゃってもかまわないから、明日この雑誌にのってる可愛いコーラルピンクのグロスをつけて学校にいってみたいな、誰かに「おはよう」とかける声もいつもより繊細かもしれない、そんな一瞬だけで女の子のあたしは笑って“今”を生き急げられる。そっか、なんだ、最初からあたしと柳はおなじ世界に生息して、ちがった方法で呼吸をする生き物なんだ。 「この都立の図書館は広い、も何か無心に読めるものを探せばいい」 机の上にのびるあたしに、柳は言った。 「先ほどから上の空でながめている、その雑誌以外にな」 浮ついた心を見透かされたようで、さらにいじけて机に顔をつけて、じっと柳を見あげてにらむ。そうしたら、驚いたことに俯いていた柳が顔をあげた。表情のすくない白皙がわずかにゆれている、微笑み?いまだに柳の顔色がうまく読めないあたしはまごつく、心臓がさわいで、急に音が、光が、沈黙の隙をかいくぐってつぎつぎと生まれる。耳の奥が、どきどきと、うるさい。背筋をただして閲覧者用の椅子にすわる柳のうしろに、都立図書館が誇るそうそうたる書籍がカテゴラリー別にわけられて本棚にならんでいる。歴史、人類史、地理、自然科学、医学.............あらゆる知識への扉が、目の前にひらかれているのが漠然とわかるのに、どうしても、どうしても、今一番ページをひらいてみたい本がみつからない。 「 『柳蓮二大百科』 なんてのがあったら、読む」 「無心で」と小さくつけくわえたら、うっかり好意を漏らしている事に気がついて、びっくりした。あまりにも柳の存在がちかくにあって、完璧にこの場のふたりだけの状態が、たやすく恋心をゆるすものだから、つい。くちびるを噛みしめる、卑怯だ、甘えたっ!...........このつかの間にー おそるおそる顔をあげると、柳の切れ長の瞳とまっすぐ目があった、すべての軽薄な感情をおしながして、ただしずかに、見惚れた。ゆっくりと体の力がぬけ、戦い疲れた心が一点だけをさす、どうしよう、やっぱりこのひとがいい。しまったな、まったくとりかえしがつかないや、それほどに、好き。 バタン、と重々しく古書が閉じられ、長い溜息が落ちた。 あたしは恐れた。 「そう.......かわいいことを言うな」 白熱灯の光がつつむホコリぽい室内に、一滴の甘さがとけた。 ゆるゆると氷解されるように、あたしはふるえ、柳の台詞だけを飲みこんで、なんとか噛みくだいた。柳の右手が上におかれた難しい古書の文字は、よく見れば墨の色がのびて深く、美しかった。書いたのはどんなひとだったんだろう?きちんとあとで柳にきいてみよう、あきれながらも丁寧に彼らしい品の良さで教えてくれるはずだ。ひんやりと肌にあたるスティール製の椅子よりも、今頃暗い土の下でその著者の体は冷たくなっている。それなのにここには勝手に柳を慕う、生きて呼吸する温かいあたしの体がある。どちらが好みかなんて、柳が容赦なくえらべばいい、でもたった今燃えるように頬を染めゆく色、どうか、どうか、その鮮やかさだけは、軽蔑しないでほしい。 100926 |